聖武天皇の娘は女性皇族初の怨霊になっていた!?
鬼滅の戦史124
■祟りを止めるため、遺骨を掘り出して改葬するも…
母子の死後、次々と不幸な出来事が起きた。まず、藤原四兄弟の一人・藤原宇合(うまかい、藤原式家の祖)の9男・蔵下麻呂(くらじまろ)が急死。彼は、光仁天皇の即位に便宜を図った御仁であった。
光仁天皇は、この死を井上内親王の祟りと考えて秋篠寺を建立した(この点から鑑みると、天皇までもが母子の死に関わっていたと推察できそうである)。しかし、その後も天変地異が頻発し、さらに光仁天皇や山部親王までもが病に倒れたことで、祟りへの恐怖は倍増した。
とうとう光仁天皇は、井上内親王の遺骨を掘り出して改葬。御墓と改称し、墓守を置いて恭しく葬っている。それでも異変は収まらず、怪異事件まで頻発した。心身共に疲れ果てた光仁天皇は、皇太子へ譲位を行い太上天皇となるが、8ヶ月後に崩御している。心晴れぬままの死であったに違いない。
光仁天皇の崩御後も、氷上川継の乱(782年)などの政争が相次ぎ、政情が落ち着くことはなかった。こうした中で光仁天皇の跡を継いだ桓武天皇(山部親王)も、義母である井上内親王の怨霊に怯えることとなった。自らの即位が義母の犠牲の上に成り立っていることを思えば、負い目を感じざるを得なかっただろう。
後に桓武天皇は弟の早良親王を死に追いやったことでその怨霊に悩まされることになるが、すでに即位した時点でも、井上内親王の怨霊に苦しめられていたのである。
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